1960

1960年代:証券恐慌に対して日銀特融発動

1965年(昭和40年)5月28日は戦後の経済史に残る重要な日になりました。日銀が証券会社向けに事実上無担保・無制限に特別融資することを決めたからです。いわゆる日銀特融です。まず大手の山一証券が対象になり、2カ月後の7月には大井証券にも特融が実施されました。この異例の措置によって信用不安の拡大を抑えることができましたが、日銀特融に至る過程はなかなかドラマチックなものでした。

サンウエーブや山陽特殊製鋼の倒産に象徴される昭和40年不況は、実態経済の面では比較的短期に回復しましたが、証券業界にとっては長期間の証券市場不振の最終場面でした。証券各社は経営基盤を固めないままに業務拡大を図ってきたので、経営体質に弱さを抱えていました。岩戸景気後の不況下で、1962年ごろから低調だった証券市場は63年秋以降さらに沈滞し、64年1月には株式買い支えのための中立的機関として日本共同証券が設立され、いわゆるダウ1200円防衛戦が展開されましたが、決め手にはならず、40年不況へとつながっていきます。

1960.png山一証券の経営の苦しさが注目されるようになったひとつのきっかけは、64年9月期決算で多額の赤字を出し、経営トップが突然辞意を表明したことです。産業界の不況が深刻化するとともに、山一もいっそう注目されるようになり、マスコミは山一の悪い実態をかなり正確につかんでいたといわれます。

65年(昭和40年)5月に入って、大蔵省は在京新聞各社に再建計画がまとまるまで山一問題の報道を自粛してほしいと要請しました。しかし、要請外にあった新聞が5月21日朝刊で山一問題を扱い、これをきっかけに各紙が同日夕刊でいっせいに山一の経営の苦境や再建策を報じました。日本経済新聞は「山一証券の再建策固まる、融資金利タナ上げ」と記しています。

同日の特別記者会見で田中角栄蔵相は「この問題で大衆投資家が迷惑を受けることはない」と強調、大蔵省当局者は「証券業界再建策はヤマを越した」と述べています。必死に信用不安の広がりを抑えようとしている様子が読み取れます。しかし、新聞報道を機に、山一に対し、運用預かり金融債の引き出しや投信の解約が急増します。取り付け的な状態になったわけです。株式市場にも不安感が高まりました。

年初に1227円でスタートした日経平均は4月3日に1115円の安値を付けていましたが、5月26日にはこれを下回って一時1110円を割り込みました。さらに28日には1100円の大台を割り込みました。山一だけでなく、他の証券会社にも取り付け的な動きが波及し、大手証券も自身の顧客対策に追われ、市場対策に手が回らない状態でした。

こうした状況をうけて、新聞報道から1週間後の5月28日、日銀法25条にもとづく無担保・無制限の特別融資の実行が決断されました。その際の発表文には「政府及び日銀は現段階において証券界の必要とする資金については、関係主要銀行を通じて日銀が特別融資を行うことを決定した。さしあたり山一証券については主要3行がこの融資を行うことを決定した。特別融資の措置等を含めて証券金融については抜本的対策を早急に講ずる」としています。

ここにもうかがわれるように、日銀特融は一部証券会社だけでなく、証券界全体を対象にし、信用秩序を維持しようとしたものです。それが結果的に山一、大井の2社だけにとどまったことは、日銀特融という措置が適切だったことを物語っています。その後、証券市場は戦後初の国債発行による不況克服構想をきっかけに立ち直り、経済の高度成長を支えに活況を取り戻していきます。